第1回
「相 州 大 山」

時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ
                                                    (源実朝)

三宗兼学の道場「大山詣り」の流行で賑わう




大山寺の護摩祈祷
  丹沢大山国定公園の南東端に屹立し、三角形の山陽の頂上(1246メートル)からは、広く関東平野や相模湾一帯を見渡せる。
 雨乞いや雨止めの霊験あらたかで、豊作を祈る農耕民の帰依が多かったと伝える。
 大山は、雨降山(あめふりやま)、阿夫利山(あふりやま)とも呼ばれ、その語源には諸説があるが、まず、頂上常に雲がかかっており雨がよく降るからという説。
 次には、アイヌ語のアヌプリ(偉大なる山の意)がなまって"あふり"や"あぶり"になったとする説。
 また、古代にはしかばねを山に葬る(はふる―ほうむる)習慣があり、「はふり山」が「あふり山」に転じたという説もある。
 開山は天平勝宝7年(755)、東大寺別当の良弁(ろうべん)によるものと伝えられ、大山寺(だいさんじ)は、華厳、天台、真言の三宗兼学の道場として発展。
 12の僧坊が作られ、周辺には多数の修験の修行者が住み着いた。
 鎌倉や小田原をはじめとする関東の武将からも敬われ、
冒頭の和歌(金槐和歌集所収)は鎌倉三代将軍の実朝が大山の神に献じたものだ。
 また、近世では江戸幕府が関東の高野山として位置づけようとしている。
 一方、江戸の一般民衆からは「大山詣り」の流行が生まれ、幾筋もの大山街道が整備されて、交通の便にも貢献している。

伯耆坊大天狗大神

 相州大山は元来が天狗の山で、大天狗小天狗が大勢住んでいたと伝えられている。
 それらの親玉ともいえる存在が、伯耆坊(ほうきぼう)という名の天狗で、
日本八天狗に名を連ねるほどの大物である。
伯耆坊はその名のとおり、もとは鳥取県の伯耆大山に住んでおり、
相州大山には相模坊という天狗が住んでいたといわれる。
 相模坊は平安時代の中期頃、讃岐国・白峯に移動する。
相州大山の頂上には、石尊祠(せきそんし)、大天狗祠、小天狗祠があり、
相当古い時代から祀られていたらしい。
 江戸時代の大山詣りの人々が道中で唱える唱文(しょうもん)や富士講行者の唱文にも、大山の「石尊大権現、大天狗、小天狗」の語が挿入されている。
 保元の乱に敗れ、讃岐に配流された崇徳上皇を慰めるために夜な夜な訪れたというのが、この白峯相模坊である。
 一方、伯耆大山にいた伯耆坊は、南北朝分裂以降、伯耆の大山寺宗徒が宮方と武家方に分かれ、抗争を繰り返し荒廃した伯耆大山を見限り、相州大山に移ってきたといわれている。

            

大山阿夫利神社奥の院                 阿夫利神社